新聞はLinuxになれるか
自分用メモで新聞とブログとのジャーナリズムの関係について分かり易い例がないか考えると、ちょうどパソコンのOSの問題と似ている事に気づきました。使いやすいゆえに巨大なMSWindowsと、しがらみにとらわれないLinux。前者はデファクトスタンダードであり利益を独占できるますが、一企業の一商品であるためにその開発やサポートをすべて自前で行なわなくてはならないため、過去の遺産に引きずられ対応も遅くなりがちです。一方後者はGNUにもとづくオープンソースとして自由配布(無料)がされています。誰でも自由に改変が出来て再配布可能な分、すべては自己責任です。これが今MSの牙城を崩しつつある事に異論はないはずです。
情報というものがオープンソースとするなら、blogはGNUの様な指針を持つことで、同様の成果が発揮できるのではないでしょうか。取材した記事を多くの目を通し、積み上げ、叩いていく事で、真実により近づく可能性があります。それが湯川さんなどのおっしゃる参加型ジャーナリズムなのでしょう。
では、新聞はどこで咬んでいけるのでしょうか。Linuxにはディストリビューションというパッケージ化されたものがあり、これにはカーネルやインターフェース、ビジネスソフトやサポートをも含み、店頭販売もされています。ジャーナリズムはOSのカーネルのようなもので、これがなくては何も動かない基本ですが、取材姿勢などは普段読者が目にする形で表面化はしません。まるで、一般のパソコンユーザーはカーネル 2.6.9の話よりも、excelで何が出来るかに興味があるように。新聞はベンダーとして叩きぬいた情報をパッケージ化し、インターフェースとお役立ち情報、お問い合わせ先を載せて各戸配布する事が出来ます。これによりすべて自前で情報をそろえるより遥かに安価に確実に、欲しい情報を届ける事が出来るようになるでしょう。それは消費者の望むところと相反しないはずです。
ゆえにLinux kernel MLなどと同様、blogが取材・編集現場として新聞にも活用でき、共存する事は可能なのではないかと考えるのです。だからこそ、編集部の人間にこそblogの存在を知ってほしいし、敵対するのではなく参加してほしいと思っています。
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by nekotekikaku | 2004-11-02 11:11 | @新聞屋
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